月報「流山」より

「あなたがたより先にガリラヤへ行き」

2018年7月 牧師 宗形和平


「イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。」

マルコの福音書 14章27節


 6月11-12日に教会スタッフリトリートをもたせていただきました。主が創造された自然の中で静まって、神様のみわざに思いを向けながら過ごすひと時です。そこで共に黙想したみことばの箇所から、一部ですがお分かちしたいと思います。

 

 最後の晩餐が終わり、イエス様が捕えられる直前の、いつも夜を過ごしていたオリーブ山のゲツセマネに向かう途中の話です。暗い真夜中、つまずきそうな道を歩きながら、イエス様は「あなたがたはみな、つまずく」と語られました。なぜ弟子たちはつまずいたのでしょう。信仰が弱く、主に従う勇気と力が足りないから…ではありませんでした。「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるから。」羊飼いである主が打たれ、殺されてしまうから、弟子たちがつまずき、散らされてしまう。そして羊飼いを打つのは「わたし」という主なる神様ご自身だというのです。すると弟子たちがつまずくのは弟子たちのせいと言うよりもむしろ神様のせいとなりそうです。けれどここでイエス様は、つまずきの責任がどこにあるかを語ろうとしておられるのではありません。その背後にあって、弟子たちのつまずきも包み込んで進む神様のみわざを示そうとしておられます。

 

 この時、続けて「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。(28節)」と語られました。イエス様の死でつまずき散らされてしまう弟子たちに、復活の主がもう一度出会われ、新たに立てて下さる…と。弟子たちの故郷であり召され信仰の第一歩を踏み出したガリラヤ、つまずいて気落ちして帰ってゆくのもガリラヤしかありません。そのガリラヤでもう一度、まことの神の民・弟子・信仰者として召し出される(やり直せる恵みがある!)というのです。

 私たちの信仰の歩みは、私たちの勇気や力で支えられているのではなく、イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによってであることを、深く思わされたことでした。

 

 

   ただ、ルカはさらにもう一つのことを語ろうとしているようです。16-17節での「子ども」は、15-16節では「幼子」と記されていました。「子ども」というのは小学生くらいまでの年齢を含む広い意味の言葉ですが、「幼子」は「乳飲み子」とも訳される「赤ちゃん」を指す言葉でした。「子ども」であれば、教えを聞き、信頼し、受け止めて、と理解できるのですが「幼子(乳飲み子)」ではそれさえできません。

 

 

  「神の国は、このような者たちのもの」には赤ちゃんも含まれ、赤ちゃんはお腹がすけばおっぱいに吸い付きますし、母親は子どもの成長を願いそれを与えるでしょう。幸いを願う神様がくださる恵みに吸い付くように「神の国」を求め、「受け入れる者」に神の国は与えられる、そうイエス様は語ってくださっているようです。私たちも、子どものように神の国を求め、「神の国を受け入れる者」とされたいと願います。