月報「流山」より

「葬列を止める主」

2018年8月 牧師 宗形和平


「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。」

ルカの福音書 7章13節


  葬りの場面、その遺体はまだ若い息子で(14節)、悲しむ母親は夫を先に失ったやもめでした(12節)。夫を亡くした女性にとっての一人息子は、喜びであり、頼りだったでしょう。その息子の死は、自分のすべてを奪われたかのような悲しみのはず。絶望の中にあるその人に、「泣かなくてもよい」と主は告げられたのでした。そして棺に近寄って手をかけ、葬送の列に、これ以上進んではならない、とでも言うようにかついでいた人たちを立ち止まらせたのでした(14節)。まるで眠っているだけであるかのように「起きなさい」と命じると、その死人は起き上がり、ものを言い始めたというのです。そうしてイエスさまは彼を母親にお返しなされたのでした(15節)。

 

 やがてイエスさまは十字架におかかりになり、私たちの罪を全て背負い、私たちを赦し、神のみもとに導くために死なれます。いつか必ず死ぬ私たちの厳しい現実と苦しみを、イエスさまご自身も体験されました。その御子を、父なる神さまは三日目によみがえらされました。イエス・キリストの十字架の死を経て復活へと至る歩みからは、この世には正しい者にも苦しみが襲うことを知らされます。同時に私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなく、死から解放し新しいいのちを与える神さまの恵みの力だということが明らかにされたのです。

 

 この世を生きる私たちは、肉体における死を必ず迎えます。けれど死が支配するこの世にあっても、「泣かなくてもよい」というイエスさまの御声を聞くことができます。そしてやがて世の終わりの時に、「あなたに言う、起きなさい」というみことばは完全に成就し、眠りから覚めるように新しいいのちを生きるのです。力ある恵み深いイエス・キリストを信じて生きる道が用意されています。ですから私たちは安心してこの世を生き、安心してこの世を去ることができます。このお方を信じ、頼り、仰ぎ見、賛美をささげながら、感謝と喜びの中を礼拝者として、主のみからだなる教会で共に歩んでまいりましょう。