月報「流山」より

「人の見つめ方」

2018年9月 牧師 宗形和平


「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」 

 マルコの福音書 9章40節


 使徒ヨハネがイエスさまにあることを報告しました。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです(38節)」。尊い主の御名を呪文か何かのように使うことなどあってはならないから、それ以上に「その人が私たちについて来なかったから(38節)」でした。自分たちはイエスの弟子として犠牲を払って従っている。それなのに従いもせず、名前だけ使うなどズルい…そのような思いが見え隠れします。ヨハネはイエスさまから「よく言ってくれたね」というようなお褒めの言葉を期待したと思います。

 

 だから「やめさせてはいけません(39節a)」という意外なことばに、耳を疑ったことでしょう。更に「わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません(39節b)」と語られました。これはご自分の名前が呪文のように使われてもいいと言っておられるわけではなく、その人に対し怒り、やめさせようとすることで自分の忠実さ・熱心さを示そうとしたヨハネへの忠告でした。そして熱心で、それゆえ立派な働きをすることができる人が陥りやすい落とし穴でもあります。そのような人は他の人を見る目が厳しくなりがちだからです。イエスさまは人を敵としてではなく、味方として見つめてごらん、と教えられたのでした。

 

 例えば、家族の救いは私たちの切なる願いですが、なかなか信仰を持ってくれず、がっかりすることがあります。けれどその家族が毎週礼拝に送り出してくれたり、教会まで車で送ってくれるなら、その人はあなたの味方だ、喜び、感謝しなさい。わざわざ敵と見なすようなことをしてはならないよ。そのようにイエスさまは語られたのでした。これは父なる神さまとイエスさまの私たちへの眼差しであることに気づきます。神さまに忠実であるよりむしろ逆らい、自分中心に生きてしまっている私たちです。その姿を厳しい眼差しで見つめられたなら、敵とみなされ断罪されて当然です。ところが神さまはそうなさらず、かえって独り子をこの世に、私たちに与えてくださいました。私たちの人の見つめ方というものを変えさせるのではないでしょうか。