月報「流山」より

「主イエスの祈りで」

2019年10月 牧師 宗形和平


「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」

マルコの福音書 1章35節

 


 ユダヤ暦では、一日は日没から始まります。「夕方になり日が沈むと(32節)」は、安息日の次の日になったということで、人々は安心して病人や悪霊に取りつかれた者をイエスのもとに連れて来たのでした。戸口に集まった町中(カペナウム)の人々を癒し続けるイエス

様のわざは、その日の夜遅くまで続いたことでしょう。

 

  夜遅くまで働かれたイエス様でしたが、翌朝早く、一人、寂しいところに出ていかれ、そこで祈っておられた、それが上記のみことばです。ここで考えたいのは、そこでイエス様は何を、また何のために祈っておられたのかということです。このことを知るヒントが、36節以下のやり取りにあります。同じ記事がルカの福音書4:42-43にあって読み比べてみると、ルカの福音書には、祈っておられたという描写がないこと、イエス様を探した人たちが違っていること、語られたことばも違っていることに気づきます。

 

  ルカの福音書では、まだ残った人たちがいたのでしょうか、今日こそは癒していただきたいとやってきたのにイエスがいない、だから探しにやってきましたし、自分たちのところから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた、と記されています。そのような人たちに、あなたがたのところにだけ留まっていることはできない、ほかの町々にも福音を告げ知らせることが自分の使命なのだ、と告げられたのでした。ところがマルコの福音書では、やってきたのはシモンとその仲間(弟子)たちです。それゆえイエス様が別の町や村へ宣教に行かれる、その使命への招きのことばとなっています(38節)。

 

 マルコがイエス様の祈りの姿を記したのはなぜでしょう。そこで何を、また何のために祈っておられたのでしょう。それはイエス様の力の源・わざをなすための父なる神様との交わりの祈りであると同時に、弟子たちのための祈りであったことに気づかされます。39節のイエス様の姿の傍らには当然、弟子たちもいます。イエス様は、やがて全世界に出て行って福音を宣べ伝える者たちを伴い歩まれ、朝早く、まだ暗いうちにも祈ってくださっていることをマルコは伝えているのです。