月報「流山」より

「良い忠実なしもべ」

2019年5月 牧師 宗形和平


「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」

マタイの福音書 25章21節 


 教会の営みは不思議です。この世にあってなおこの世の原理だけでは動かないから。天地万物を造られたお方を信じ、仰ぎ見ることによってなされている営みゆえ、主の御前にあって何をするのかが私たちの行動原理となります。

 

 この「タラントのたとえ」は、神様が私たち一人一人にタラント(資質・特質・能力・才能など)を与えておられること、それを用いて実りを生み出すべきことを教えています。そしてやがての日に「よくやった。良い忠実なしもべだ」ということばをいただくことになるのだ、と(ここで主人が最初の二人に全く同じ言葉(21節と23節)で褒めていることが大切な点です)。

 

 問題は、3番目の1タラントが与えられた人でした。この人は、タラントを用いず、埋めて、主人にそのまま返します。主人に損をさせたわけではありません。けれどそのしもべに主人は「悪い、怠け者のしもべだ」という、厳しい言葉を告げています。この人はどうして与えられたものを生かし用いようとしなかったのでしょう。おそらく1タラントだったからに思えます。他の人は5や2タラントなのに、自分は1タラント『しか』与えられていない…この不公平さに腹を立て、不満を抱いていたからに思えます。24-25節のしもべの言葉からは怒りの感情を読み取ることができます。

 

 1タラントは当時の労働者1日分の賃金の6000倍の金額、1年に300日働いたとして、20年分の賃金に相当する金額です。神様はそのようなとんでもなく大きな人生の元手を、一人一人に与えてくださっています。それなのにこの僕は喜べ(喜び)ませんでした。他の人と比べてしまったからでした。このたとえは、1タラントを与えて下さっている神様の恵みを教えようとしています。あの人は、この人は、と人と比べることばかりしてしまう目を、自分を生かし、自分が生きる人生の条件を与えてくださっている神様の方に目を向け直していきましょう。