月報「流山」より

「ぶどう園のたとえ」

2019年6月 牧師 宗形和平


「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。

 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」 

マルコの福音書 12章10〜11節


 ある主人が、必要の全てを整えてぶどう園を農夫たちに貸して旅に出かけました。収穫が見込める時になり、取り分を受け取るために主人は何回もしもべを遣わしたのですが(2節)、農夫たちはそのしもべたちを打ちたたき、追い返し、殺してさえしまいます(3-5節)。ついに「私の息子なら敬ってくれるだろう」と「愛する息子」を送るのですが(6節)、捕らえ、殺し、外に投げ捨ててしまった、というのです(8節)。

 

 するとどうなってしまうのでしょう。農夫たちは殺され、ぶどう園は他の人たちに与えられてしまう(9節)、とあります。実際、ローマ軍によってAD 70年にエルサレムは陥落し、半世紀後(132年)イスラエル全体が滅びてしまいました。

 

 これは祭司長、律法学者、長老たちに語られたたとえなのですが (11:27,12:12)、私たちにも関係しています。私たちも人生を神様から預けられたものによって営んでいます。では、そこで得た実りを神様にお返ししているでしょうか。農夫たちと同じように、主人(神様)への感謝を忘れ、勝手に生きてしまってはいないでしょうか。

 

 その結果は滅びです。けれどまさにそこで上記のみことばが光を放ちます。これは詩篇118篇からの引用ですが、この詩篇は罪の深い自覚を持つ人が、神様の救いの恵みに感謝し、ほめたたえる歌です。その理由は、人間の深い罪にも関わらず神様は救ってくださるからで、「家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった」からだ、と歌うのです。私たちはこの農夫のようなものですが、滅びることはありません。イエス様が代わってさばきを受け、滅びを担ってくださったからです。このたとえから私たちが聞き取るべきことは、神様が「私の息子なら敬ってくれるだろう(6節)」という驚くべき信頼と愛と忍耐をもって語りかけ、良い交わりを結ぼうとしておられると知ることです。そしてその神様の語りかけに応えていこうとすること、それが私たちの信仰生活です。