月報「流山」より

「神様の御思いに応えて」

2019年7月 牧師 宗形和平


「しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。」

マルコの福音書 12章6節


 マルコの福音書12章には、ぶどう園の主人が農夫たちに貸して旅に出かけたというたとえ話が書かれています。収穫の時期になり、取り分を受け取るために何人ものしもべたちを送りましたが、農夫たちはしもべを打ちたたいて追い返してしまいます。このたとえは「祭司長、律法学者、長老たち(11:27)」に向かって語られたものでした。ついに主人は、自分の愛するひとり息子を送るのですが、農夫たちはその息子を殺し、ぶどう園の外に放り出してしまいます。それは祭司長、律法学者、長老たちが、これからしようとしていること…イエス様を十字架にかけてしまうことの予告でもありました。

 

 このたとえは私たちにも語りかけています。私たちの命も、生きるために必要なものもみな神様から与えられたものであり、預けられたもので人生を営んでいます。私たちの努力もありますが、実を結ぶために必要な条件は神様が整えてくださっているのです。そのように与えられた人生という「ふどう園」での収穫を、神様は要求なさいます。けれどそれは年貢のように厳しく取り立てられるのではありません。神様がお求めになるのは、自分に与えられたものが神様のものであると認め、与えられたものを用いて豊かな実を結び、その実りを神様と共に喜ぶことであり、感謝し、主なる神様と良い関係で生きることです。神様は私たちにも、ご自分の愛と恵みを受け止めて、それに応えて生きることを求めておられます。ところがこのことを認めず、自分の命をまるで自分のものだと思い、好き勝手に生きてしまうなら…これがイエス様を十字架の死へ追いやった人間の思いであり、私たちの罪の根源でした。

 

 そのような私たちに、けれど神様は「私の息子なら敬ってくれるだろう」という驚くべき信頼をもって語りかけ、良い交わりを結ぼうとしておられます。このように語りかけにくださる神様の御思いに応えて生きようとすることが私たちの信仰生活です。神様に与えられた人生において、良い実を結ぶことができますように。