月報「流山」より

「狭い門から」

2019年9月 牧師 宗形和平


「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。」

ルカの福音書 13章24節 


 8月号の月報のクイズ13で取り上げたみことばです。マタイとルカの2つの福音書に記録されたのですが、違う意味で語られていました。

 

 このみことばに続けて、25節では同じく門(25節の『戸』は、24節の『門』と同じ言葉です)を鍵の言葉として、門が閉じられる時がくることと、門が閉められるともう入れないことが教えられています。狭い門を入って救いに与るためには、タイムリミットがあると聖書は語られたのでした。それはイエス・キリストがもう一度来られる時であり、私たちの死というタイムリミットもあります。与えられた時間には限りがあることを知り、狭い門から入るよう熱心に務めることが求められたのでした。

 

 続く27節に「不義を行う者たち」と出てくるのですが、これは特別大きな罪を犯した人のことではなく、イエス様と一緒に飲食し、交わり、広場で教えを聞き、受け止め生きていた人たち(26節)のことです。それなのに救いに入れないというのです。

 

だとしたらどんな人が救いに与れるのでしょう。それは「アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たち(28節)」、主なる神様の呼びかけに応えて旅立った人たちであり、神のことばを聞き、それを人々に伝えた人たちといえるでしょうか。神様のみことばを受け止め、そこに生きた人々、みことばに生きた人たちです。

 

 私たちも「神の食卓(29節)」に招かれています。神の国での宴会の席へと続く門を開いて下さっている方がおられます。神様は、清く正しい罪のない(と思っている)人間を招いておられるのではありません。罪人である私たちを招くために、イエス様は十字架の死という狭い、誰も通ることができない苦しみの門を通ってくださいました。そしてその門を開いてくださいました。私たちが神の国に入るための門を、です。狭い門を通られたイエスさまが、両手を広げてその門を十字架の釘打たれた手で抑えてくださっている姿が目に浮かびます。イエス様の招きに応えて、この門を通り、救いの道を歩みゆきましょう。